神社学的☆神様とともに過ごす時間(中村真・神社学)


思い返せば20年以上前にただただ興味の先に神社と出会い、その興味の赴くままに日本中の神社を巡り、関連書籍を読み、それにあきたらず様々な人の話を伺うことをひたすら繰り返してきたのだけど、その過程で想いはやはり建物としての神社ではなく、そこに祀られる日本の神様にむかっていった。


なんでそこにいつごろから? 


神様おわすその空間こそに心震えるようになり、同時に全国にあるそういった空間や土地が折り重ねてきた人々の暮らしに興味が湧いた。


神社はもちろん、今では神道という宗教の施設であるが、神道こそがごく最近までは宗教ではなく、人の暮らしの中に当たり前のように存在する神=自然とともに生きていく「随神道(かんながらのみち)」であったわけで、毎日の暮らしのなんてことない当たり前の時間すらも、大自然に生かせていただいている貴重な時間という認識があったはずだし、そう感じ考えることが出来るこの国に生まれたことをココロから感謝することになった。 


 先日、障害者支援活動をおこなう古くからの知り合いから一つの相談を受けた。支援活動は様々あるだろうが、そこでは絵画を通して彼らの自由なモノの捉え方、枠にとらわれない表現を引き出していて、これまでにも様々な作品を世に生み出しているという。


そこで、知り合いは以前僕の出版した「円空仏」作画集を覚えており、どうにか彼らに生の円空仏を描かせることはできないだろうか、という相談内容だった。

さすがに現存する円空仏は全国各所にあるが、おいそれとそれをスケッチさせてくれるところがあるだろうか。

作画集を出版するするときにも、撮影取材させてもらうことすらなかなかなハードルは高ったのに。。。


と、そんなことを考えたのが相談を受けた時の僕の印象だった。 


だけれど、神様はちゃんと用意してくれているもんだ。僕が毎月と言っていいほど祈りを捧げに伺い、登拝と献笛を心ゆくまで行わせていただいている神社が群馬にある。その周辺地域にも江戸時代、円空さんは逗留しており、その神社にも円空さんが残した不動明王が祀られている。


 そこで無理を承知でその神社の宮司に相談してみると、思いが通じ、特別にご対応いただけることとなった。

普段はガラス越しにしか拝むことのできない円空仏・不動明王。この日の為に、宝物殿のガラスのなかから飛び出してきてくれまして、 生円空仏の香りすら感じる距離感で拝むことが出来まして、、、、もうこれだけでも幸せの極み! 


そんな中、不思議な時間が流れていった。


彼らには、僕のこの感動そのものとは別の感覚があるに違いない。円空仏を目の前にした彼らは、そこから無言で筆を走らし、一心不乱に線を産みだす。その線は端と端が繋がり、自由な世界が繰り広げられ、でも、流れる時間はゆっくりと、まるで刻がとまったように。


その時間、後ろで彼らの姿を見ていた僕は、ほんとに、不思議だけど、涙を流していた。 


悲しいわけじゃなくて、どちらかというと嬉しくて。 


だれかがあからさまに喜んだり笑ったりしているわけじゃないのに、ひとり感極まってた。 


神社が好きになって、僕はほんとうに世界が広がり、僕自身の生きている世界がどんどん深みを持っていった。その深みに少しだけ気が付くことが出来ただけなのかもしれないが。でも、だからこそ出会えた人や瞬間、場があって、確実にその先に江戸時代の円空さんの存在を知ることになった。円空さんがこの地に来てゆうに500年以上たった今、その円空さんに、人の心そのものである彼らをお繋ぎさせていただき、その彼らの感じる円空さんの魂が、あらたに産み出される瞬間に立ち会わせていただく。


あの時間のあの場所は、ずっと神様に見守られていた。 僕は霊能者のように見えたり聞こえたりはしない。でも神社が好きになったその先に、神様を感じることはある。


それはもちろん目に見え耳に聞こえてくるものばかりとは限らない。


限らないんだけど、ああ、僕は生きてきてよかったな、この国に生まれついて本当に幸せだな、と感じることのできる瞬間、確実にそこは偉大なる神々に抱き寄せられていると信じている。 神々とともに過ごす時間。癒しのもとに目が覚める。 


 神様はいつも僕らを見守ってくれている。 


抱き寄せて、愛で包んで、 光さすことで道を指し示し、 そのみちを信じて進むことで僕らの魂はいつでも浄化する 


 Gran Espritu

 弥栄ましませ