神社学的☆先人はいつもクリエイティブ!


神社学を通して僕が一番伝えたいことはとてもシンプルで、暮らしの中に日本の神様を意識してみたらいかがでしょうか? ということ。何かの宗教に入らなくても、特に日本の神様に詳しくなくても、日本は古来から自然を神様そのものと捉えてきたのだから、朝、目が覚めたら空にむかって「今日もよろしく!」という気持ちを持つだけでもいいし、普段の行動範囲の中に神社があれば、ちょっと足を止めて「ここにはどんな神様がお祀りされているのかな?」と気持ちを寄せてみるのもいいかもしれない。


神様や神社には興味はある。しかし、お参りの仕方に自信がない、とか、日本の神様のことをあまりよく知らない、、、なんて思ったことはないですか? 僕は究極的には神様のお名前や参拝のルールなど知識的なものは必要なく、その土地に祀られた神様と祀り始めたであろう先人への想いを胸にしっかりと抱いて、心からご挨拶申し上げることに重きを置いている。そんな思いの中でも、僕なりに大事にしているマナーは、もちろんある(笑)


”お参りとは神様に会いに行くことであり、自然とつながりに行くことだ”


僕はそう考えており、神社とはその大きさに限らず自然そのものであるとも感じている。たいていの神社には拝殿という拝むための建物があり、その入り口にはしめ縄が張られ、そこから紙垂(しで:ギザギザの白い紙)が垂れ下がり、中央には鈴がある。これ、何かを表現しているように思えない? 僕はこれらをすべて自然現象の具現化と捉えている。


例えば、しめ縄を雲と見立て、鈴は雷雲、紙垂は稲妻とイメージすると、、、



昔から日本人は自然そのものを神様と見立てていた、、、のなら、どうやっても手の届かない空こそ天であり神様そのもの。ときどき雲がわぁっと広がり、激しい雷が落ちてくる。「雷」は「かみなり」であり「神成(神様がおなりになる)」である。ほとんどの国民がみな稲作農家であった時代、雷が鳴り雨が降ることは稲にとってとても求められていたことだし、それこそ神様が与えてくれる奇跡のような瞬間だったはずだ。ゆえに雷を、稲を育てる際の最も重要なパートナーとして「稲・妻」=「いなづま」と表現した。しめ縄という雲が自分たちと天(空)を隔てており、それを見上げて鈴をゴロゴロと鳴らす。紙垂という稲妻を眺めながら、「神様、またご挨拶にきました。どうぞおいでください」と手を合わせると、神様はお成りになられる。そう考えると、神社で拝むことは空に向かって拝むことなのかもしれない。昔の人々はどうしてこんなにクリエイティブなんだろう。ほんと脱帽ですよ(笑)