神社学的☆命の連鎖の真っただ中にある責任


神社に足を運ぶようになり、少しずつ僕は命の起源に思いを馳せるようになった。同時にこの国の成り立ちや歴史にも興味をもち、その歴史を遡っていくと「古事記」にたどり着いた。しかし当然だが「古事記」が日本の始まりではなく、そこに記録されるずっと前から僕たちの祖先は生きていて、神道や神社ができる前から、働き、食べ、眠り、だれかを愛し、子を産み育て、太陽や月や雷を神様として崇めていただろう。たった一人の数十年の命は儚いものかもしれないけど、一人ひとりの命が古代から脈々と続いてきたからこそ、僕たちはいまここに生きている。

父と母という二人の人間がいなければ僕はいまここに存在せず、父と母が存在するには父方、母方両方の祖父母四人の人間がいなくてはならない。四人の祖父母が存在するには八人の人間が存在しなくてはならず、その八人が存在するには十六人、十六人のためには三十二人が存在しているわけだ。こうして僕の命にかかわる人間は遡ればのぼるほど倍々ゲームのように増えていく。日本という国は古代のころから災害や飢饉に見舞われ、戦国時代も長く、疫病も流行し、近代に入っては何度も戦争をしてきた。それにもかかわらず先祖たちからの命の連鎖が途切れなかったのは、ものすごいことだなと思う。

“何万人もの人たちが命をつないでくれなければ、今の自分の命はない”

“自分の後ろには壮大な命の連鎖が広がっている”

こう気づいたとき、

“自分の命は自分のものというより、たくさんの人たちから与えられたものなんだな”

と思うようになった。そう思えると、超直近の命の連鎖である両親こそがかけがえのない、とても大事な存在なんだと思えるようになった。

「人類みな兄弟」という言葉があるけど、あれはあながち間違いではないと思うし、僕が何万人もの先祖の末端にいるのであれば、いまこのブログをご覧の方々と僕の祖先が繋がっていることだって大いにあり得る。人類の起源はアフリカ大陸にあり、それが世界中に散らばってさまざまな人種が生まれたという研究によれば、ひょっとすると「人類みな兄弟」というのは遺伝子的にも真実かもしれない。そう考えるとあらゆる人が愛おしいし、この中で優劣を決めたり争ったりするのは本当に無意味で悲しくなる。先住民だった縄文人と、大陸からやってきた渡来人が家族になって日本人という民族が生まれたならば、多様性こそが僕らの原点に横たわり、お互いを認め合ってこその命の連鎖が続いてきたと言える。そして僕らにはその命の連鎖をとめることなく続けていく責任があると思っている。今、世界中で未来そのものである若年層が声を上げている。この声をどのように捉えるのかは、それぞれの状況や環境に大きく左右されるだろうが、それでも僕らは耳を傾けていかなければならないはずだ。なぜなら命の連鎖のもとに僕らが存在するのだから、その連鎖の先の未来からのメッセージを無視することは、自分自身の命を軽んじることに他ならないのではないだろうか。