神社学的☆日本の神様に出会うために山に登る(中村真・神社学)


暖かくなってきましたね。


あああ、今すぐにでも山に登りたいw 


山登りが好きな人にとっては気温が上がりすぎる前の春、最高の山日和ですな! 


ということで今回は、山登りと日本人・・・

というと大袈裟かもしれないが、日本人にとっての御山の在り方について。


「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」との趣旨で一昨年から8月11日が、「山の日」という祝日となる。かつて登山といえば、大学や社会人の山岳部・山岳会を中心とした活動が中心であり、その後、1990年代には日本百名山といったTV番組をきっかけに中高年の登山ブームが起こり、2009年頃には"山ガール"という言葉とともに若い女性の登山が増加し、2003年から2008年まで600万人前後と沈んでいた登山人口は2009年に1,230万人と倍増。2010年も1,000万人を超え、その後も富士山の世界文化遺産登録をきっかけに増加傾向にあったが、2011年の東北震災、2013年の御嶽山噴火の影響から減少し、現在は800万人程度と考えられている。いずれにしろ、古来から自然環境に恵まれていた日本にとって、これほどまでに登山客が増えてきた時代はなかったと思う。


ではいつごろから人は楽しむために山に入ってくるようになったのであろうか? 


明治時代(1868年 - 1912年)、1874年にガウランド、アトキンソン、サトウ(佐藤 愛之助 アーネストサトウ イギリス外交官)の三人の外国人パーティが、ピッケルとナーゲルを用いたいわゆる近代登山を日本で初めて六甲山で行った。ガウランドは1881年に槍ヶ岳と前穂高岳に登山して「日本アルプス」を命名した人物で、サトウは富士山に最初期に登った外国人としても知られる。その後、日本においての近代登山が花開いたと言える。 


しかし古来から日本国内においては、当たり前のように人々は山の恩恵を受け、ともに暮らす術を持っていた。ただ、近代登山におけるピークハントや景観を楽しむといったレジャーとしての登山というカルチャーがなかっただけで、もともと日本人の精神性の中には、山に限らず自然そのものに対する畏怖や畏れ、または自然の摂理そのものに神や仏を見立てた自然崇拝がひろく横たわり、その自然そのものである御山を、楽しむ観点や頂上を制覇するといった考え方はなく、その恩恵をいただきながらともに暮らし、ときには大自然そのものの神様や仏様にご挨拶にいく目的で山に立ち入ってきた。里山で暮らす人、そのもの山の中で暮らす狩猟民族、行者・山伏と言われた修験道の修行者たち・・・。つまり近代登山の考え方においては、前人未到と言われた様々な山も、登山者たちが初登頂したその頂にはすでに、古代から祀られる神様や仏様が鎮座されていたという。先に説明した近代登山としては1881年にガウラントが槍ヶ岳に登頂しましたが、その60年ほど前1828年には播隆上人による槍ヶ岳開山が行われていた。神や仏は、その存在を意識し祀る人がいなくては存在しないので、近代登山が始まるずっと前から日本各地の山々には、神や仏に出会うために、または拝むために山を登る修行者たちの存在があった。それは山を楽しむ登山ではなく、個人的な信仰として神や仏を拝むために山を登る「登拝」という言葉として今日までその概念は残っている。 



 先日、長野県は上高地の山に登拝をしてきた。登山道の途中にある明神池に穂高神社の奥宮がご鎮座されている。穂高神社とは安曇野市穂高にご鎮座される日本アルプス総鎮守、海陸交通守護の神「穂高見命」を祀る神社だが、その奥宮が明神池のお社にあたる。ご神体はもちろん背後の穂高岳であり、「穂高見命」の「見」とは「オサメル」意味とされ、穂、高くなる地をオサメた偉人ということで「穂高見」と呼ばれたという説が残ってる。その穂高見命を穂高大明神とまつり始めたところから、いつしかご神体である穂高岳を明神岳と称するようになった。明神岳とは穂高岳の尊称にして穂高連邦の中心の山として多くの人の信仰の対象になり、江戸時代以前は上高地を神河内と表現していた。


ではその祀られている神様「穂高見命」とはどんな神様なのか。古来の修行僧たちが意識し拝むに登った大明神の正体を紐解いてみたいと思う。


「穂高見ノミコト」別名「ウツシヒガナサクノミコト」とも言われ、初代天皇である神武天皇(即位前はカミヤマトイワレヒコノミコト)の叔父にあたるといわれ、神武統制以前、筑紫の国に一大勢力をきずいた「ワダツミ」一族がいち早く入植してきたあたりからその存在の話が発生する。「ワダツミ」とは長崎県の対馬にある「ワダツミ神社」を本宮とする海運の神さまだが、その俗称として「アヅミ」とも呼ばれ、古来、日本海をわたって信州の地に入り、その際に穂高くある地をオサメたということで「穂高見命」が祀られたのだろうとされている。それが明確に何年に、ということはわかっていないが、神武東征以前、ということを素直に受け取ると、神武天皇が東征をして日本建国を奈良の橿原で行ったのは、紀元前660年とされているので、その前ということになる。となると、時は縄文時代にさかのぼり、神話時代からの物語を今に伝えている、ということがいえる。 


その後、2000年程度の歴史的空白期間があるが、おそらく安曇村及び近隣の人々が、勝手に木々を伐採、又、狩猟生活していたであろう痕跡があり、しかし歴史的には江戸時代に入り、松本藩による樹木伐採が大々的に行われるようになったところから記録されている。たった400年程前まではこの土地に本当に縁のあるものと、この土地で生計を立てていた人間以外は立ち入る場所ではなかったわけで、しかし近代登山の時代の到来から、今では多くの登山者が立ち入り、山の魅力を味わうことが出来るようになったことに感謝しなくてはならない。 


過去、これまで多くの人々を受け入れることのなかった明神岳をはじめとする穂高連邦、もっといえば日本中の山に言えることだが、それでも太古から日本人は山や川、滝や海など大自然そのものとの共生を意識し、ともに生きてきたことは間違いなく、その昔は、「登山」ではなく神や仏を拝むために登るということで「登拝」という概念のもとに山に入ってきた。これは日本人だからこそ思いを馳せることのできる山とのかかわり方であり、そのDNAレベルでの日本人としてのアドバンテージを最大限に活かして山を楽しむとなると、山頂を踏むピークハントや景観を楽しむといったことの他に、ぜひ、山の神さまに逢いに行く、山の仏様を拝みにくために登る「登拝」を目的のひとつに加えていただけたら嬉しく思う。 


 播隆上人像(JR松本駅前).播隆が再興した笠ヶ岳東面は播隆平と呼ばれている。播隆(ばんりゅう、1786年(天明6年)- 840年11月14日(天保11年10月21日)は、江戸時代後半の浄土宗の僧。槍ヶ岳の開山、笠ヶ岳の再興者江戸時代より、上高地明神池は信仰の聖地であり当社の神域。この地は“ひょうたん形”をしており、手前を一之池、奥を二之池と呼ぶ奥穂高岳に降臨され辺を開拓していかれたという穂高見命。阿曇氏の祖神として広く知られており海神「大綿津見」の子供で海を司る神様です。