自然崇拝を色濃く残す山岳信仰の聖地・玉置の山(中村真・神社学)
紀伊半島のちょうど真ん中。南部に熊野三山を、北部に天川村や吉野を望み、北西に高野山、北東に伊勢を眺める日本最大の村・十津川村に聳える玉置山。大峰山脈の南端に位置するこの御山は、熊野川水系支流の北山川と十津川村の深い渓谷に挟まれた1,076メートルの低山である。しかしその山頂からは熊野の山々を見渡すことができ、その遠望には太平洋が広がる神秘の山といえる。
古来、紀伊半島の山々を駆け巡ることを修行として、大峰奥駆道の修験者たちの最終目的地として捉えられていた玉置山は、修行を締めくくる場所という意味合いから「結願天(けちがんてん)」と呼ばれた日本有数の霊山といえる。ここもまた御山自体がご神体であり、御山そのものが神おわす社である。
いまでは9合目の駐車場まで車であがることもできるが、もちろん麓の村から徒歩で登ることもできる。車道と山道を繰り返しながら2時間ほどで山頂に辿りつく。その山頂付近には、熊野三山の奥の院として名高い玉置神社が鎮座している。日本という国が出来上がっていく建国神話の主人公である初代天皇陛下・神武天皇にまつわる伝説や、熊野信仰の中心地ともいえる熊野本宮大社とのかかわりを造営神話として残す古社である。
紀伊半島の霊地霊場とそれらを結ぶ祈りの道・熊野古道は世界遺産に登録をされて久しく、いまでは多くの観光客が押し寄せる日本を代表する観光地となった。しかしそれらの信仰は地元地域の暮らしと、厳しい山中に身を置き、「行」をおこなう修行者たちが自然との共生を図りながら長い時間をかけて守ってきたものであり、表面的に有名な観光地巡りをするだけでは、その本来の魅力を知ることが出来ないのではないかと思う。
今では熊野三山を知らない人はいないのではないかと思うほど、週末ともなれば熊野速玉大社にも那智の大滝にも本宮大社にも人が溢れている。もちろん高野山や伊勢地方などは言うに及ばずである。これらを点として見てしまうとその魅力は限定的だが、それらを結ぶ熊野古道を含んで俯瞰的に紀伊半島を感じてみると、そこには壮大な信仰ワンダーランドが広がっている。その真ん中に位置するのが玉置山なのだ。その山名の由来は、熊野三山の奥の院とされる玉置神社の信仰の原点であり、元つ宮とされる玉石社にある。先に紹介したふたつの伝説が物語るのは、日本創生とともにこの社の存在があったという世界感である。
時は今から遡ること2678年前。現代の天皇陛下に繋がる初代・神武天皇がこの国を建国したとされている年。この建国神話にはそれまでのプロセスが紹介されており、神代の時代、神々の住まう高天原をおさめていた天照大御神が孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)を地上に降臨させ、その曾孫として筑紫の国・日向で生まれた神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと=神武天皇)が、奈良の地を目指し旅立つ話である。
九州から東に向かって進み、奈良を目指したこの行程を以てして「神武東征」という建国神話をご存知の方も多いだろう。所謂その神話のエンディングに向けた話に登場するのが、玉置の山なのだ。様々なエピソードの末に、ようやく熊野に上陸した神武天皇は、現地氏族の神格化と言われるヤタガラスの案内で熊野の森に分け入っていく。その時に神々の証である神宝「十種神宝」の中から「玉」を置いて、その後の武運を祈願されたと伝わっている。いずれにしても「置く」のか「飛んできたのか」の違いはあれど、玉のような石を崇め奉ったプリミティブな信仰がこの地で生まれたことを物語る。 また紀元前37年、時は第10代・崇神天皇の御代。熊野本宮大社から三珠の玉がこの地に飛来したとも伝わる。人々は熊野からやってきたのだから、熊野権現の子供だろうと信じ崇拝し始めたのが、玉置神社の信仰の基となった玉石社の始まりともされている。そして両伝説が、もしかすると同一人物なのではないかと言われている初代・神武と10代・崇神を繋げているのも興味の対象である。それほど古くから現代に繋がる主たる神々の系譜に連なる誕生譚をもつ玉置の山は、世界遺産などに登録されなくとも十分に人の心に沁み込む信仰を擁しているのだ。
ぜひ玉置の山の大神様に会いに出かけてもらいたい。玉置の山に置かれた石を感じてみてほしい。そこには宗教という概念が生まれるよりもずっとずっと前から、自然そのものを神と感じ拝んできた人々の想いに触れることができるだろう。
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